「やさしい」って、どういうこと?
よく使う言葉「やさしい」。優しい人が嫌いな人間はいない
でも「やさしいとは、何ですか…?」と訪ねても、誰もその定義をしっかり答えられない やさしさについで、誰も知らない。
その答えを教えてくれるのが 本書。
なかなか目にウロコだった 文中から、一部を抜粋しつつご紹介
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やさしいか、やさしくないかは、「相手が私の好む態度をとったかどうか」で、決まるのです。
「Aさんは私にやさしい」というなら、それはAさんが、私の喜ぶ態度、好む態度、期待する態度をとったということです。
逆に「Aさんは私にやさしくない」というなら、Aさんが私の好まない態度、期待しない態度をとったのです。私の期待に応えてくれないAさんは、まったくやさしくない、失礼な奴というわけです。
あなたが「コーヒーが飲みたいな」と思っている。そこで誰かが
コーヒーをすすめてくれたら、
その人はやさしいのです。かゆい背中をかいてくれたら、やさしいのです。好きな音楽をかけてくれたら
、やさしいのです。私たちは、他人が自分の希望
期待に応えてくれると、「やさしい人だなぁ
」とうれしく
思うのです。
相手がやさしいかどうかは、私が独断と偏見で決めてしまいます。誰かの意見を聞いて客観的に判断したりはしません。もっぱら自分の自我、エゴ、自己中心的な強い自意識で決めているのです。
だから私たちは、やさしいかどうかの判断に悩むことはありません。「やさしい」「あまりやさしくない」「すごくやさしい」「やさしくない」。私たちは自分のエゴで瞬時に
やさしさを判定することができます。私たちが
「やさしさって何?」と真剣に考えたことがないのは、その必要性を感じていないからなのです。
私たちは誰でも社会に対して自分なりの「型」を持っています
。その型は「他人が自分にどのような態度をとればいいか」という自己中心的な
エゴのプログラムです。その型にはまるならやさしい人、型にはまらないならやさしくない人と、私たちは判断しているのです。
いつも自分の要求に応えてくれるやさしい人ばかりなら、とても居心地がいいのですが、現実は違います。一人ひとりのエゴの型は、ほとんどが合わないのです。
「冷たい人ばかりだ」
「世の中は厳しいなぁ」
「現実は残酷だ」
こんな声をよく聞きますが、いずれも現実が自分の型に当てはまらないという嘆きです。
人は誰だって、やさしくしてほしい。人を殺した人間でも自分にはやさしくしてほしいのです。
「あなたが人を殺したのもしかたがないですねぇ」「あなたは悪くありません」「無罪になる方法を一緒に考えましょう」とか言ってほしいのです。そう言われると大変気分がいいし、そう言ってくれる人は世界一やさしい、ということになります。
結局、世間のやさしさはエゴなのです。自分に都合がよければやさしくて、都合が悪ければやさしくない、そういうことです。それだけのことなのに、私たちは「やさしいから、良い」「やさしくないから、悪い」と信じて疑ったことがありません。
なにに誰一人として自分が求めるやさしさがエゴだと、わかっていません。
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人間は外から入ってくるもので生きており、食べ物と水と空気があれば
人生がうまくいくわけではありません。そこがとても重要です。
人間には、いろんな「刺激」が必要なのです。眼から
耳から
鼻から
舌から
身体から
入ってくる刺激が必要なのです。
「自分に心地よい刺激を与えてくれる人」は、とてもやさしい。そういう人は、自分が生きていくのに欠かせない
とてもありがたい人です。
わかりやすく言えば、 「やさしさ」とは、私たちの「命」なのです
ペットが自分の期待どおりに対応してくれるなら、
「うちのペットはやさしい
」ということになります。飼っている犬がまるで
言うことを聞かず、顔を見ると吠えかかってくるようだと、「やさしくないから
どこかにあげてしまおう
」という話になります。
ところが、やさしさは必要不可欠なものであると同時に、「あってはならないもの」でもあるのです。
それは他人に「やさしさ」を求めることが、「自分の要求を満たしてくれと
、他人に頼むこと」だからです。つまり、やさしさは「他人を
自分のために使用すること」なのです。
これは、あってはならにことでしょう? (弱肉強食の世界になり…)
だから「やさしさ」は 私たちが生きるために必要ですが、あってはならいものなのです。
ここに至って私たちは、まったく違う次元でこの問題を見なくてはいけないのです。
「私」ではなく、「この一個の生命」と考える
「私が、私が」というエゴを捨てて、より客観的に、より普遍的に物事を見て、「生命が」と考えればいかがでしょうか?
「生命が」と考えるなら、これもあれもすべて生命です。そこに自と他の区別はなく 対立は生じません。
だから心安らかに生きたいのであれば、「私」という単語をできるだけ使わずに、一個の生命の立場で
考えればよいのです。
生命Aが生命Bの心に必要な刺激を与えるならば、生命Bも何か必要な刺激を生命Aに与えているのです。
相手は何かを受信したくて、送信してくるのです。
こちらから発生する刺激がない場合は、向こうから送ってきません。
だから、生命はギブ&テイク
です。受信だけではなくて
送信もしなくてはいけないのです。
別なところから、また刺激を送信してきてくれたら、それに合わせて 相手が必要な刺激を送ってほしいのです。
本当のやさしさ ★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜
小さな子供が「お母さん」と呼びかける
。それは、お母さんから何か刺激をもらいたいからです。それでお母さんは子供に向けて
「一人でおトイレに行けたの?えらいね」とか
ほめてあげる。そうやって何か刺激を
発信してあげるのです。
仕事から帰ってきた旦那さんが、「ただいま」と言う。それを家族が「お帰りなさい」
「おつかれさま」と迎える
。
そうやって命がつながっているのです。
これは自然なことで特別なことではありません。
しかしこれが「本当のやさしさ」なのです。
「やさしくいる」ということは、そんなに難しいことではないのです。
自我を張らず、よけいなことを考えないで、自然の流れで生きれば、その人はやさしいのです。
本当のやさしさは、エゴのない「生命」という次元なので、必要以上を求めません。「欲しい」というところまではいかないのです。
必要なものはないと命に関わりますが、それを用意してあげるのは難しくありません。お腹が空いている人に
おにぎりを二個、三個あげるのは、そう負担にならないでしょう
。
一つの生命の立場で、他の一つひとつの
生命との関係を見ると、相手から
何を要求されているのか見えてくるものです。
それが相手にとって「欲しいもの」でなく「必要なもの」であれば、必ず与えることが可能です。与えられないものが必要であることはありません。
けれど現代人は、「必要」ということをとっくに忘れてしまっているのです。誰も「必要」と
「欲しい」をきちんと区別していません。軽々と「必要」のレベルを超えて「もっと欲しい
」というところまでいってしまうのです。むしろ「欲しい
」だけの感情で生きています。いつでも
欲の感情に振り回されているのです。
「必要」のレベルを満たしてあげるのは簡単ですが、「ほしい」を満たしてあげるのは困難です。無理をしないとできません。相手の好物ばかり揃えてもてなすのは、かなりの負担になるのです。そこから、ありとあらゆる問題が生じるのです。
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自分という生命は、どの程度のネットワークで成り立っているのでしょうか? 見渡してみて下さい。
都会に住んでいると、眼に入るものはほとんど
人がつくった物ということもあります。(中略) 眼に入るあらゆるもの、身につけているもの、ぜんぶ膨大な数の誰かによって
つくられたものなのです。部屋にいると、自然のものは
自分の身体くらいかもしれません。それだけでも人は喜びを感じることができるのです。「自分という生命は
数え切れない人に支えられて生きているのだ」と。
それで「寂しい」とか「一人だけだ」とかいう気持ちは、たちまち消えてしまいます
「どうして私が」は、くだらないエゴ
その都度、その都度、誰がやればいちばん効果がよくて仕事が早いか、自然の法則で成り立っています。「この場合は、あたなの仕事だよ」というのが歴然とあるのです。
誰がやってもよいのです。固定的に「これはこの人がすべき仕事だ」ということは、ありません。どうやって能率、効率をよくするのかを考えて、そのときに上手にできる人がさっと動くだけでよいのです。それはいつでも、ものすごく自然に出てきます。「この人だ」と。これは自然の法則です。法則にしたがうなら、それ以外に選択肢はないのです。
だから私たちが、エゴを張らずにいつも自然に生きているなら、素晴らしい社会なのです。それがやさしい社会です。わざわざ「やさしさ」を振り回す必要はありません。本当のやさしさは、自然でいることなのですから。
「ここで誰がやるべきか」ということは、エゴさえなければ自然に成り立つのです。本当のやさしさは、まったく難しくないのです。格好をつける必要はありません。エゴを捨てるだけのことです。「私が、私が」というエゴを捨てて、「一つの生命です」「人間社会の一人のメンバーです」と自然に振る舞えばいいのです。
エゴを捨てて、ネットワークで自然に出てくる義務を果たすなら、ネットワークはあなたに必要なものをぜんぶ用意してくれます。満たされて生きていられます。
生命は、自分のことしか知らない
生命にエゴがあるのは、構造上の大きな問題があるからです。
生命は、自分の眼耳鼻舌身意という六つの器官から刺激、情報を得て
生きています。眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わって、身体で感じて、頭のなかでいろんなことを考えているのです。そのため、自分の中に
この刺激の実感があります。それで思考が回転して、「私があるのだ」
と錯覚するのです。自我、エゴという錯覚は、このようにして自然に生まれてしまうのです。
このようなカラクリがあるために、すべての生命には「自分のことしか知らない」という問題があるのです。生命は、生命が
ネットワークであることを考えたこともないのです。
だからトラブルを 起こさない生命はいません。間違いを犯さない
生命もいません。悩まない
生命もいません。落ち込まない生命もいません。
いつの社会であっても、過去も現代も未来も、ネットワークはめちゃくちゃに壊れているのです。
生命は平等ですが、けっして均等ではありません。肉体も
生きている環境も違います。どう踏ん張っても
同じにはなりません。なかには
「欲しいもの」どころではなくて、
「必要なもの」もなかなか揃わない
生命がいるのです。
「欲しいもの」がなくても人はとても幸せですが、「必要なもの」がないと、人は幸せではありません。
みんなエゴがありすぎてしまって、「自分だけ幸せになれば十分だ。自分の問題さえ解決すれば、他人のことはほうっておきますよ」という
生き方をしていますが、
人間には「苦しみをなくてあげたい」という気持ちが、おのずとなくてはならいのです。
理屈はありません。
「どうして?」と聞くなら、あまりにも変です。病気です。ひもじくて苦しんでいる人を前にして、「知るもんか
好きなだけ食べてやるぞ」というのは異常です。
完璧になんでも揃っているという人はいないのです。誰だって、自分だって、病気になったり歳をとったりするのです。「困ったな」という人がいたら、助けてあげるのは当たり前です。それはネットワークの仕事です。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆以上。
読んだのは、だいぶ前ですがたまに
思い出してます
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コメント
目からウロコですね。
争いとか社会問題には、エゴが大きく関係しているでしょうね。
私のブログからNatsumiさんのブログへリンクしたいのですが、良いですか(エゴですか(^_^))?
投稿: たかし | 2010年10月29日 (金) 19時00分
たかしさんっ

コメありがとうございます。嬉しいです。
エゴですか?(笑)(しちゃいますね~
)
お仕事ひと段落されたのですねっ
私もリンクさせて下さ~い
冷たいなぁと思った時は、自分のエゴなんだと思ったり。優しさを求めては…
とか思ったりしました。
時間(元気)がある時に、
アップする気力が無い時に


本の書評は
下書き状態で溜めているので
代わりにアップするんですよ(笑)これもそんな記事でした
リンクお願いしま~す
投稿: Natsumi | 2010年10月29日 (金) 20時13分