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2010年10月26日 (火)

「やさしい」って、どういうこと?

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よく使う言葉「やさしい」。優しい人が嫌いな人間はいない

でも「やさしいとは、何ですか…?」と訪ねても、誰もその定義をしっかり答えられない やさしさについで、誰も知らない。

その答えを教えてくれるのが 本書。

「やさしい」って、どういうこと?

なかなか目にウロコだった 文中から、一部を抜粋しつつご紹介

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やさしいか、やさしくないかは、「相手が私の好む態度をとったかどうか」で、決まるのです。

「Aさんは私にやさしい」というなら、それはAさんが、私の喜ぶ態度、好む態度、期待する態度をとったということです。

逆に「Aさんは私にやさしくない」というなら、Aさんが私の好まない態度、期待しない態度をとったのです。私の期待に応えてくれないAさんは、まったくやさしくない、失礼な奴というわけです。

あなたが「コーヒーが飲みたいな」と思っている。そこで誰かがコーヒーをすすめてくれたら、その人はやさしいのです。かゆい背中をかいてくれたら、やさしいのです。好きな音楽をかけてくれたら、やさしいのです。私たちは、他人が自分の希望期待に応えてくれると、「やさしい人だなぁ 」とうれしく思うのです。

相手がやさしいかどうかは、私が独断と偏見で決めてしまいます。誰かの意見を聞いて客観的に判断したりはしません。もっぱら自分の自我、エゴ、自己中心的な強い自意識で決めているのです。
だから私たちは、やさしいかどうかの判断に悩むことはありません。「やさしい」「あまりやさしくない」「すごくやさしい」「やさしくない」。私たちは自分のエゴで瞬時にやさしさを判定することができます。私たちが「やさしさって何?」と真剣に考えたことがないのは、その必要性を感じていないからなのです。

私たちは誰でも社会に対して自分なりの「型」を持っています。その型は「他人が自分にどのような態度をとればいいか」という自己中心的なエゴのプログラムです。その型にはまるならやさしい人、型にはまらないならやさしくない人と、私たちは判断しているのです。

いつも自分の要求に応えてくれるやさしい人ばかりなら、とても居心地がいいのですが、現実は違います。一人ひとりのエゴの型は、ほとんどが合わないのです。

「冷たい人ばかりだ」
「世の中は厳しいなぁ」
「現実は残酷だ」

こんな声をよく聞きますが、いずれも現実が自分の型に当てはまらないという嘆きです。

人は誰だって、やさしくしてほしい。人を殺した人間でも自分にはやさしくしてほしいのです。
「あなたが人を殺したのもしかたがないですねぇ」「あなたは悪くありません」「無罪になる方法を一緒に考えましょう」とか言ってほしいのです。そう言われると大変気分がいいし、そう言ってくれる人は世界一やさしい、ということになります。

結局、世間のやさしさはエゴなのです。自分に都合がよければやさしくて、都合が悪ければやさしくない、そういうことです。それだけのことなのに、私たちは「やさしいから、良い」「やさしくないから、悪い」と信じて疑ったことがありません。

なにに誰一人として自分が求めるやさしさがエゴだと、わかっていません。

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人間は外から入ってくるもので生きており、食べ物と水と空気があれば人生がうまくいくわけではありません。そこがとても重要です。
人間には、いろんな「刺激」が必要なのです。眼から耳から鼻から舌から身体から入ってくる刺激が必要なのです。

「自分に心地よい刺激を与えてくれる人」は、とてもやさしい。そういう人は、自分が生きていくのに欠かせない とてもありがたい人です。
わかりやすく言えば、 「やさしさ」とは、私たちの「命」なのです

ペットが自分の期待どおりに対応してくれるなら、「うちのペットはやさしい」ということになります。飼っている犬がまるで言うことを聞かず、顔を見ると吠えかかってくるようだと、「やさしくないからどこかにあげてしまおう」という話になります。

ところが、やさしさは必要不可欠なものであると同時に、「あってはならないもの」でもあるのです。

それは他人に「やさしさ」を求めることが、「自分の要求を満たしてくれと、他人に頼むこと」だからです。つまり、やさしさは「他人を 自分のために使用すること」なのです。
これは、あってはならにことでしょう? (弱肉強食の世界になり…)
だから「やさしさ」は 私たちが生きるために必要ですが、あってはならいものなのです。
ここに至って私たちは、まったく違う次元でこの問題を見なくてはいけないのです。

「私」ではなく、「この一個の生命」と考える

「私が、私が」というエゴを捨てて、より客観的に、より普遍的に物事を見て、「生命が」と考えればいかがでしょうか?
「生命が」と考えるなら、これもあれもすべて生命です。そこに自と他の区別はなく 対立は生じません。
だから心安らかに生きたいのであれば、「私」という単語をできるだけ使わずに、一個の生命の立場で考えればよいのです。

生命A生命Bの心に必要な刺激を与えるならば、生命Bも何か必要な刺激を生命Aに与えているのです。
相手は何かを受信したくて、送信してくるのです。
こちらから発生する刺激がない場合は、向こうから送ってきません。
だから、生命はギブ&テイクです。受信だけではなくて送信もしなくてはいけないのです。
別なところから、また刺激を送信してきてくれたら、それに合わせて 相手が必要な刺激を送ってほしいのです。

  本当のやさしさ ★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

小さな子供が「お母さん」と呼びかける。それは、お母さんから何か刺激をもらいたいからです。それでお母さんは子供に向けて「一人でおトイレに行けたの?えらいね」とか ほめてあげる。そうやって何か刺激を発信してあげるのです。

仕事から帰ってきた旦那さんが、「ただいま」と言う。それを家族が「お帰りなさい」「おつかれさま」と迎える

そうやって命がつながっているのです。
これは自然なことで特別なことではありません。
しかしこれが「本当のやさしさ」なのです。

「やさしくいる」ということは、そんなに難しいことではないのです。
自我を張らず、よけいなことを考えないで、自然の流れで生きれば、その人はやさしいのです。

本当のやさしさは、エゴのない「生命」という次元なので、必要以上を求めません。「欲しい」というところまではいかないのです。
必要なものはないと命に関わりますが、それを用意してあげるのは難しくありません。お腹が空いている人におにぎりを二個、三個あげるのは、そう負担にならないでしょう
一つの生命の立場で、他の一つひとつの生命との関係を見ると、相手から何を要求されているのか見えてくるものです。

それが相手にとって「欲しいもの」でなく「必要なもの」であれば、必ず与えることが可能です。与えられないものが必要であることはありません。

けれど現代人は、「必要」ということをとっくに忘れてしまっているのです。誰も「必要」と「欲しい」をきちんと区別していません。軽々と「必要」のレベルを超えて「もっと欲しい」というところまでいってしまうのです。むしろ「欲しい」だけの感情で生きています。いつでも欲の感情に振り回されているのです。

「必要」のレベルを満たしてあげるのは簡単ですが、「ほしい」を満たしてあげるのは困難です。無理をしないとできません。相手の好物ばかり揃えてもてなすのは、かなりの負担になるのです。そこから、ありとあらゆる問題が生じるのです。

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自分という生命は、どの程度のネットワークで成り立っているのでしょうか? 見渡してみて下さい。
都会に住んでいると、眼に入るものはほとんど人がつくった物ということもあります。(中略) 眼に入るあらゆるもの、身につけているもの、ぜんぶ膨大な数の誰かによってつくられたものなのです。部屋にいると、自然のものは自分の身体くらいかもしれません。それだけでも人は喜びを感じることができるのです。「自分という生命は数え切れない人に支えられて生きているのだ」と。
それで「寂しい」とか「一人だけだ」とかいう気持ちは、たちまち消えてしまいます

「どうして私が」は、くだらないエゴ

その都度、その都度、誰がやればいちばん効果がよくて仕事が早いか、自然の法則で成り立っています。「この場合は、あたなの仕事だよ」というのが歴然とあるのです。

誰がやってもよいのです。固定的に「これはこの人がすべき仕事だ」ということは、ありません。どうやって能率、効率をよくするのかを考えて、そのときに上手にできる人がさっと動くだけでよいのです。それはいつでも、ものすごく自然に出てきます。「この人だ」と。これは自然の法則です。法則にしたがうなら、それ以外に選択肢はないのです。

だから私たちが、エゴを張らずにいつも自然に生きているなら、素晴らしい社会なのです。それがやさしい社会です。わざわざ「やさしさ」を振り回す必要はありません。本当のやさしさは、自然でいることなのですから。

「ここで誰がやるべきか」ということは、エゴさえなければ自然に成り立つのです。本当のやさしさは、まったく難しくないのです。格好をつける必要はありません。エゴを捨てるだけのことです。「私が、私が」というエゴを捨てて、「一つの生命です」「人間社会の一人のメンバーです」と自然に振る舞えばいいのです。

エゴを捨てて、ネットワークで自然に出てくる義務を果たすなら、ネットワークはあなたに必要なものをぜんぶ用意してくれます。満たされて生きていられます。

生命は、自分のことしか知らない

生命にエゴがあるのは、構造上の大きな問題があるからです。

生命は、自分の眼耳鼻舌身意という六つの器官から刺激、情報を得て生きています。眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わって、身体で感じて、頭のなかでいろんなことを考えているのです。そのため、自分の中にこの刺激の実感があります。それで思考が回転して、「私があるのだと錯覚するのです。自我、エゴという錯覚は、このようにして自然に生まれてしまうのです。

このようなカラクリがあるために、すべての生命には「自分のことしか知らない」という問題があるのです。生命は、生命がネットワークであることを考えたこともないのです。

だからトラブルを 起こさない生命はいません。間違いを犯さない 生命もいません。悩まない 生命もいません。落ち込まない生命もいません。 いつの社会であっても、過去も現代も未来も、ネットワークはめちゃくちゃに壊れているのです。

生命は平等ですが、けっして均等ではありません。肉体も 生きている環境も違います。どう踏ん張っても同じにはなりません。なかには「欲しいもの」どころではなくて、「必要なもの」もなかなか揃わない生命がいるのです。
「欲しいもの」がなくても人はとても幸せですが、「必要なもの」がないと、人は幸せではありません。

みんなエゴがありすぎてしまって、「自分だけ幸せになれば十分だ。自分の問題さえ解決すれば、他人のことはほうっておきますよ」という 生き方をしていますが、
人間には「苦しみをなくてあげたい」という気持ちが、おのずとなくてはならいのです。
理屈はありません。
「どうして?」と聞くなら、あまりにも変です。病気です。ひもじくて苦しんでいる人を前にして、「知るもんか 好きなだけ食べてやるぞ」というのは異常です。

完璧になんでも揃っているという人はいないのです。誰だって、自分だって、病気になったり歳をとったりするのです。「困ったな」という人がいたら、助けてあげるのは当たり前です。それはネットワークの仕事です。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆以上。

読んだのは、だいぶ前ですがたまに思い出してます

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コメント

目からウロコですね。
争いとか社会問題には、エゴが大きく関係しているでしょうね。

私のブログからNatsumiさんのブログへリンクしたいのですが、良いですか(エゴですか(^_^))?

投稿: たかし | 2010年10月29日 (金) 19時00分

たかしさんっ
お仕事ひと段落されたのですねっコメありがとうございます。嬉しいです。
私もリンクさせて下さ~いエゴですか?(笑)(しちゃいますね~)

冷たいなぁと思った時は、自分のエゴなんだと思ったり。優しさを求めては…とか思ったりしました。
本の書評は 時間(元気)がある時に、
下書き状態で溜めているのでアップする気力が無い時に
代わりにアップするんですよ(笑)これもそんな記事でした
リンクお願いしま~す

投稿: Natsumi | 2010年10月29日 (金) 20時13分

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