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2009年9月 2日 (水)

書籍「隠された風景」

41k439gh0pl_ss500_1_2 隠された風景―死の現場を歩く」福岡 賢正 (著) を読みました。
3部構成になっていて、
第一部 ペットの行方(保健所での処分の裏側) 
第二部 肉をつくる(屠畜のゲンバ)
第三部 遺書を読む(自殺者の…)

こういうの読むと(;;;´Д`) 気分が落ちる事は必須なんですが

まだ知らない事があるかも知れないので 読まねば…て、事で読みました(まだ第三部目は読んでないのですが)。主に隠された現場の現状と、そういった職種への人々の差別意識がルポされています。

第一部
動物愛護活動をしたい…又はしているという方がバッシングする方向を間違えないように読んでおくのが良いかと思われます。(以下・気になった箇所一部抜粋)

出版2004年時点 福岡県だけで一年に処分された犬猫は30000匹を超える勘定になる。これらがそのまま町や野に放たれていたと考えるだけで、この仕事が果たす役割の大きさが理解できるだろう。 (P.26)
「徘徊犬が登校する子どもについて学校に来ることがよくあるんですね。危険だから捕まえてくれと電話があると、他の仕事は全部差し置いて行くわけですよ。すると先生が開口一番、子どもの前では捕まえんでくれ、ですよ。現実を子どもにきちんと教え、そのうえでいのちの意味を正しく理解させるのが先生の役割でしょうに
現実に目をふさぎ、表面だけ優しげに取り繕って語られる「いのちを大切に」という言葉。そんなものが子ども達の胸に響くはずがない。それどころか、その態度から子ども達は建前と本音を使い分ける今の社会のずるさを学ぶだろう。 (P.29)

Image7291犬舎をのぞくと、檻のすき間に顔を食いこませるようにして鳴き続けている中型犬がいた。職員にきくと、飼い主が不要犬としてその日センターに持ち込んだばかりだという。
「こん犬が産んだ子が大きくなったので、親はいらなくなった」

 それが飼い主が告げた理由だという。あたかも新車に乗り換えるかのように、親犬は使い捨てられたのである。
 そんな事を知る由もないその犬は、人の姿を見ると自分を迎えに飼い主が来てくれたと思い、鳴き続けているのだった。
その犬の悲しみと、悲しみを目の当たりにしながら命を奪わねばならない心の痛みは、飼い主に代わって丸ごとセンターの職員が引き受けるのだ (P45~)

犬猫を処分する業務に携わる人たちが仕事に割り切れなさを感じている理由の一つとして、安楽死させた犬猫の体がただちに重油で焼却されていることもあげられのかもしれない。彼らの死によって人の役にたつ物が作られるのであれば意義を見いだしやすいが、焼却されて後は遺灰しか残らない。実際は地域社会の安全と良好な環境が生み出されているのだが、それらは目に見えないから意義を実感しにくいのである。

 実を言うと、地域によってバラつきはあるものの、日本でも戦後かなり後になるまで、処分した犬の体は徹底的に有効利用されていた。皮は手袋や赤ん坊の靴に、脂肪は石けんの原料に、骨は肥料に。肉は骨とともに肥料の原料とされ、一部は食肉ソーセージの原料としても流通していた。(日本人が犬猫を資源としてきた歴史は古い:中略)経済の高度成長と西洋的な価値観の浸透に伴って、犬猫の体を資源として活用するのはイメージが悪いと敬遠されはじめた。 福岡県動物管理センターは有機農法のグループに肥料として無償で譲渡している。せめて焼いた後の骨だけでも役立ててやりたいとも思いからだ。

Image7311_2 第二部 (死を待つ)コンテナかごの隙間から中をのぞくと、種鶏場からお役御免で送られてきた雌鶏だろうか、かごの中で卵を産んでいるものもいた。間もなく死ぬというのに、鶏たちはその瞬間も「生」の営みを続けているのだった。そして著者の原風景↓

田舎で育った私が幼かったころ、肉は自宅で飼っていた鶏を父親が殺してさばかないと口にできないものだった。 (中略)
 小学生のころ、病気で弱った雌鶏を、「もう食えんから」と、父親からもらい受けたことがある。当時、近所の男の子の間では竹と針金でこしらえた手製の弓矢が流行っていた。我々はその雌鶏を畑に放ち、弓矢の動く的にした。
 子どもが作った粗末な弓矢だったこともあり、矢は当たってもちょっとした傷を負わせるだけで、病鶏は一向に死ななかった。初めての生きて逃げる的を狂喜して追い回し、矢が当たるたびに歓声を挙げていた悪ガキたちも、次第に恐ろしくなってきて、声があがらなくなった。
 矢で射殺すことをあきらめた我々は雌鶏をつかまえ、竹やぶに掘った穴に埋めて殺すことにした。

ところが被せた土の上から何度踏みつけても、足を除くとその土がかすかに動くのだ。我々はいよいよ気味悪くなり、「早く死んでくれ」と心の中で叫びながら、全体重をかけて憑かれたように土を踏みつけた。
 けれどいつまでたっても土の動きは止まらず、恐ろしさに耐えられなくなった私たちは、ついにその場を逃げ出した。

 いのちとはかくもすさまじいものであり、我々はまさにそれを食らって生きているのだと、その時はっきりと実感した。そしてそのすさまじいいのちを我々家族のために鶏から堂々と奪って肉にしてくれる父親に、かすかな敬意のようなものを抱いた

著者が取材に行った屠鶏作業場には、ペルー人が働いていて「日本は美しい国だ」と祖父から聞いていた彼は、祖父の故郷日本へとやって来た。そんな 作業場の片隅で…、
Image7301屠鳥作業が終わった後、搬入口のかごの中に首を切っただけで羽も抜かずに無造作に積み上げられている鶏の死骸があった
従業員に尋ねると、種鶏場から送られてきた「経済期間」が終わった雄鶏だという。体が大きくて機械になじまず、解体するにも手作業でやらねばならないうえ、肉が硬くて鶏ガラ程度の値段しかつかない。
結果的に採算が合わないため、そのまま廃棄するらしい。
「昔はミンチにしよったとですよ。今は日本人の口のおごって食べんようになったけんですね、もったいなかですがゴミとおんなじです」
食べられることもなく、まるでゴミのように積み上げられた雄鶏の死骸

それは、ホルヘさんの祖父が語ったという「美しい国」の今を、見事に象徴する光景だった。』

(屠殺の様子:前略) 外された頭と内臓は、屠畜検査員によって病変がないかチェックされ、異常が見つかったものは、台の横に置かれたコンテナ箱に捨てられる。見ている間にも二抱えもある肝臓がコンテナ箱に投げ入れられた。検査員に聞くと、肝膿腫があるという。
1997年度の統計では、国内で屠畜された牛や豚、馬などの大動物の68%に何らかの異常が見つかり、その部位が廃棄されている。炎症や炎症産物による汚染、変性、委縮、寄生虫病などが主な理由だが、俗に言う「いい牛」ほど肝臓の廃棄率が高いらしい。味がよく、価格の高いサシ(脂肪)の入った肉にするには、牛の血統選びから始まり、飼料の種類や与え方など徹底した管理と工夫が要求される。それが動物の生理を超えると、機能障害を引き起こす原因になったりもするのだ。(P.88)

419hsxom1l_ss500_1 「子豚を抱いた生産者の写真パネルをスーパーに掲げたりすると、消費者から、かわいそうで食べられない という声があがります。だからそんな写真は下手に出せないんですよ」 (じゃあ食うなや…って思うけど最近豚のグラビア写真集が普通に本屋に並んでいる事が分からないよ。)

畜産農家戸数は減少しているが(規模は大きく…)、畜産農家一戸当たりの苦情発生率は年々上昇を続け、25年間で牛が2倍、豚が4倍弱、鶏にいたっては19倍に跳ね上がっているのだそうです。環境対策のための施設設備が進んできたことを考え合わせると、生活が豊かで快適になるにつれ、臭いや汚れ鳴き声といったものに対して、日本人が不寛容になっているのだとか。

『肉をつくる現場が身の回りから排除、隠蔽されてきた結果、私たちのいのちが多くの生き物の「死」によって支えられているという「いのちの連鎖」を実感できなくなって久しい。それが食べ物を大切にしないことにつながり、ひいては自分や他人のいのちをも軽んずる今の風潮を生んでいる遠因ではないか。』 (P.124)…と紹介されているのは、切れた鎖をつなぐ為 学校で行われた試み。凄かったのが∑(=゚ω゚=;)小学校教師、鳥山敏子先生。
<小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ「かわいそう」を口にして、すぐ涙を流す子どもたちが、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないといって平気で食べ物を捨てるということが、わたしは納得いかないのだ。わたしには、「生きているものを殺すことはいけないこと」という単純な考えが、「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」という行動と、なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてたまらない>
 
その問題意識から出発した鳥山敏子先生は、当時勤めていた東京の公立小学校の四年生たちに朝から絶食させ、稲刈りや水遊びをさせた後二羽の鶏を河川敷に放ち、捕まえて屠鳥し食べるという授業をおこなった。
 って……Σ( ̄□ ̄|||) エエェーーーー…  (「豚がいた教室」より レベル高くね?

さらに屠畜した豚を丸ごと一頭もらい受け、教室で解体調理して食べる授業を展開していく。
その様子は彼女の著書いのちに触れる―生と性と死の授業太郎次郎社に詳しいが、そこに紹介されていた子どもたちの作文が実にいい。
<「バカバカバカっ、れい血人間」。なんどもなんどもさけびました。でも、もうだめでした。ほとんど殺されていました。大きい柱の後ろで、声も出さないで泣きました。「も、もう、わたし、なにも食べない」。そう、わたしは言いました。でも、ほんとうはとってもおなかがすいていました。さっき、わたしがいったようなことをいった人も、しまいには「わたし、鳥の肉だけ食べない」といっています。なんだかなさけない気持ちです。でも、わたしもソーセージを2本、食べました。>

そしてこの章(いのちの連鎖を学ぶ)を、著者はこう閉めくくる。
人が生きるために他の生き物のいのちを絶つことは「殺す」ことでは決してない。自分の中で「生かす」ことなのだ。
いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮とは、全く性質を異にする。なのにそれが混同されている。その混同が差別や偏見を育て、混同にもとづく「死」の隠蔽が、食べ物を粗末にし、いのちをないがしろにする今の風潮や自然破壊的な文化を助長してきた。
Image7261_2その混同から脱すれば、「死」を生かし、肯定できるものにするためにどうすればいいかが、自ずと見えてくるはずだ
。』と。

ベジとしては言うトコロがありますが(眠…)(今日のところは菜食のススメに任せて)、 「性質を異にする」というのは(捨てるよりはまだという点で)そうだね(全くじゃないけど)。命を奪う現場と食卓がパージされているのは、まったく納得がいかない(食べるなら隠さず見れる環境であって欲しい)。

それにしても…( ̄ω ̄lll)命の授業。

小学生の時の私が受けていたらと考えると。自分が嫌だと思った事には一人でも反対していた子だから、絶対泣きながらワァワァシャウトしていたことと思う…
バトルロワイヤルで言うとこの…「皆やめて~!」とスピーカーで呼びかけて自分は殺されるVar.だと、映画見て思った。)

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コメント

ついさっき、2007年韓国で起こった、国会議員も市長も現場にいた集会で起こったビデオを見てしまったとこです。心臓が痛くて、涙が止まらないよなっちゃん。生きたまま子豚が八つ裂きにされてた。口からは悲鳴と泡が飛び出てたよ。

この鳥山先生も、子猫を生ませて崖から突き落としてた女作家とある意味同類だと思うんだけど。
生きていく上での矛盾や現実の辛さを、例えばVeganっていう抜け道さえも教えずに、こんな形で小学生に教えてどうするの?

あたしたち人間だけが死んでしまえばいいと、本当に、切実に思います。


投稿: kimiko | 2009年9月 2日 (水) 16時27分

うう…酷い(;ω;)酷いねきみちゃん。
ググッてみたよ(御免動画はまだ見れてない)
この記事アップしようかな…でも痛くて痛くて。
韓国の歴史ドラマを見てたら昔の政治犯の遺体が(あの豚さんのように)
ひきさかれていたのを見たけど。そんなイメージだったのかな(

>子猫を生ませて崖から突き落としてた女作家
って坂東眞砂子だよね。(参考URL http://blog.rucoco.net/?eid=559509
この本に、人間におきかえたら人権侵害の暴力ととれる避妊がペットの世界でまかり通っているのは、
殺すよりはまだ(飼い主の)精神的苦痛が少ないからだって書かれてた(もう手元にないけど)。
鳥山敏子の著作は1985年だし(授業はもっとその前だろうし)。
まだVeganって発想は無かったんじゃないかな。(今の日本でもその発想が無いけど)
この教師がそれを知っていて、喜び勇んでそうなったか、それとは別に考えたかは分からないけれど。

でもま…隠して言葉を濁す教師よりは、よいと思うよ
人も動物も大切にされる社会がいいね

教えて報告くれてありがとう

投稿: Natsumi | 2009年9月 3日 (木) 23時10分

なつみさん、いつもありがとうございます!!
今回は特に、ありがとうございます!おつかれさまでした!!!

いろいろ読めて、本当によかったです!

投稿: めぐみ | 2009年9月 4日 (金) 00時36分

ベジ会でこの記事良かったと褒めてくれてありがとう…
(弱冠ただ抜粋しすぎな記事の気もするけど…Σ(゚д゚;))
まだまだ勉強していかなくっちゃね~(精進あるのみ

お互い今週は忙しいね、また何か相談あったら気軽に鳴らしてね(12時過ぎは寝てるけど)
また週末にねっ(グッドラ~ック

投稿: Natsumi | 2009年9月 7日 (月) 22時53分

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